1820年5月12日にイギリスの裕福なジェントリ(地主貴族層)の家庭に生まれたフローレンス・ナイチンゲール。
その名言には「人生は呑気な楽しい休日でも、気の利いたことが記されている書物でもありません」などがあります。
「ランプの貴婦人」「近代看護教育の母」などと称されるフローレンス・ナイチンゲールの生涯と名言をご紹介します。
目次
フローレンス・ナイチンゲールの生涯
1820年5月12日、フローレンス・ナイチンゲールは、イギリスの裕福なジェントリ(地主貴族層)の家庭に生まれました。
幼少期は外国語、哲学、数学、天文学、経済学、美術、音楽、心理学などの教育を受けましたが、慈善訪問の際に貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにし、人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになりました。
1851年、31歳のときに精神を病んだ姉の看護をするという口実で、ドイツに滞在し看護師訓練を受けました。
帰国後、ナイチンゲールは看護師としてロンドンの病院に就職。父は就職に理解を示しましたが、母と姉は反対しました。
1853年、33歳のときにロンドン淑女病院看護師長となったナイチンゲールは、各地の病院の状況を調べ、専門的教育を施した看護師の必要性を訴えました。当時、看護師は病人の世話をする単なる召使として見られていました。
1854年、34歳のときにクリミア戦争(フランス、イギリス、オスマン帝国を中心とした同盟軍とロシア帝国との戦い)が勃発。負傷兵の扱いが悲惨な状況にあり、戦時大臣はナイチンゲールに戦地への従軍を依頼しました。
ナイチンゲールは38人の看護師を連れて後方基地にある病院へ赴任し、看護師の総責任者として活躍。数か月で死亡率を激減させて「クリミアの天使」と呼ばれました。
帰国後は病院・看護学校の開設・改善などに尽力し、看護師の教育制度を整えました。
1910年8月13日、フローレンス・ナイチンゲールは死去、90年の生涯を閉じました。ナイチンゲールは近代看護教育の母と称されます。
【関連・参考サイト】
フローレンス・ナイチンゲール(Wikipedia)
フローレンス・ナイチンゲールの名言(1)
私たちは、自分が誉められるためにではなく、私たちが選んだこの仕事に名誉をもたらし、それを前進させるために、心を打ち込んで事を成し遂げていこうではありませんか。- フローレンス・ナイチンゲール -
今年で30歳になる。
キリストが伝道を始めた歳だ。
もはや子供っぽいことは終わり。
無駄なことも、恋も、結婚も。- フローレンス・ナイチンゲール -
看護を行う私たちは、人間とは何か、人はいかに生きるかをいつも問いただし、研鑽を積んでいく必要がある。- フローレンス・ナイチンゲール -
子を失う親のような気持ちで、患者に接することのできない、そのような共感性のない人がいるとしたら、今すぐこの場から去りなさい。- フローレンス・ナイチンゲール -
構成員の奉仕の精神にも頼るが、経済的援助なしにはそれも無力である。- フローレンス・ナイチンゲール -
恐れを抱いた心では、何と小さいことしかできないことでしょう。- フローレンス・ナイチンゲール -
最も上手に人をおさめるのは、自分の責任下にある人々を愚かに甘やかすのではなく、その人のためになること、その人にとって最高の利益になることを、親身になって考える人です。- フローレンス・ナイチンゲール -
人生とは戦いであり、不正との格闘である。- フローレンス・ナイチンゲール -
物事を始めるチャンスを、私は逃さない。
たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある。- フローレンス・ナイチンゲール -
価値ある事業は、ささやかな、人知れぬ出発、地道な労苦、向上を目指す無言の、地道な苦闘といった風土のうちで、真に発展し、開花する。- フローレンス・ナイチンゲール -
立派な男性が求婚すれば、女性がそれを受諾しない理由はない、という考えにはまったく賛成できない。- フローレンス・ナイチンゲール -
愛というのは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること。- フローレンス・ナイチンゲール -
女性よ自立しなさい。
自分の足で立ちなさい。- フローレンス・ナイチンゲール -
自分の命より大切なものが多くなると、人間、気苦労が多くなる。- フローレンス・ナイチンゲール -
病院の第一の条件は、患者に害を与えないことである。- フローレンス・ナイチンゲール -
次ページへ続きます。
次ページへ