1883年8月19日にフランス南西部のソミュールに生まれたココ・シャネル。
その名言には「流行は色褪せるけど、スタイルだけは不変なの」などがあります。
世界のファッションスタイルに大きな影響を与えたココ・シャネルの生涯と名言をご紹介します。
目次
ココ・シャネルの生涯
1883年8月19日、ココ・シャネルは、フランス南西部のソミュールに生まれました。
12歳のときに母が病死し、シャネルは聖母マリア聖心会が運営する孤児院に預けられ、そこで裁縫を学びました。
18歳で孤児院を出ると、シャネルは仕立屋での職を見つけました。また、副業としてキャバレーで歌うようになり、当時歌っていた曲名にちなんで「ココ」という愛称で呼ばれるようになりました。
シャネルは歌手を目指してオーディションを受けましたが、歌唱力の評価は低く、芸能界への道はあきらめました。
23歳のときに資産家の元将校バルサンの愛人となりパリ郊外へ移住。
シャネルは退屈しのぎで帽子を制作。極めてシンプルなシャネルのデザインは一種のアート表現のように捉えられました。
1910年(明治43年)、27歳のシャネルはパリで最もファッショナブルな地区にブティック「シャネル・モード」を開店、自身で制作した帽子を販売しました。
1915年(大正4年)には「メゾン・ド・クチュール」をオープンし、翌年コレクションを発表し大成功を収めました。
シャネルはその後も事業を順調に拡大し、1921年(大正10年)にはシャネル初の香水「No.5」を発表しています。
しかし、1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が始まると一部店舗を残してすべてのビジネスを閉鎖。
翌年、フランスがドイツ軍に占領されると、シャネルはドイツの親衛隊少将と愛人関係になりました。
戦後、シャネルはナチスの諜報活動に協力したことを理由に起訴されるのを避けるためスイスに亡命。
1954年(昭和29年)、70歳を過ぎたシャネルはパリに戻り、新作ドレスを発表。ファッション界への復帰を果たしました。
ヨーロッパではバッシングを受けましたが、女性の社会進出がめざましかったアメリカでシャネルのコレクションは熱狂的に受け入れられました。
1971年(昭和46年)1月、ココ・シャネルは87年の生涯を閉じました。
【関連・参考サイト】
ココ・シャネル(Wikipedia)
ココ・シャネルの名言(1)
その日、ひょっとしたら、運命の人と出会えるかもしれないじゃない。
その運命のためにも、できるだけかわいくあるべきだわ。- ココ・シャネル -
私の人生は楽しくなかった。
だから私は自分の人生を創造したの。- ココ・シャネル -
扉に変わるかも知れないという、勝手な希望にとらわれて、壁をたたき続けてはいけないわ。- ココ・シャネル -
流行は色褪せるけど、スタイルだけは不変なの。- ココ・シャネル -
シンプルさはすべてのエレガンスの鍵。- ココ・シャネル -
ただの人じゃなく、ひとかどの人物になろうと思ったら、ずいぶんたくさんの人が離れていくものよ。- ココ・シャネル -
口紅は、落ちる過程にこそ、ドラマがある。- ココ・シャネル -
公爵夫人はほかにもいたけれど、ココ・シャネルはただひとり。- ココ・シャネル -
私は好きなことしかしない。
私は自分の人生を、自分が好きなことだけで切り開いてきたの。- ココ・シャネル -
服の優美さは、身動きの自由さにある。- ココ・シャネル -
成功は、多くの場合、失敗が不可避であることを知らない人によって成就される。- ココ・シャネル -
贅沢とは、居心地がよくなることです。
そうでなければ、贅沢ではありません。- ココ・シャネル -
男は子どものようなものだと心得ている限り、あなたはあらゆることに精通していることになるわ。- ココ・シャネル -
愛がなくなったのに、一緒にいることほど惨めなことはありません。- ココ・シャネル -
翼を持たずに生まれてきたのなら、翼を生やすために、どんな障害も乗り越えなさい。- ココ・シャネル -
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