1469年5月3日にフィレンツェ共和国に生まれたニッコロ・マキャベリ。
その名言には「決断力のない君主は、多くの場合、当面の危険を回避しようとして中立を選ぶ。そしておおかたその君主は滅んでしまう」などがあります。
代表作は政治学の『君主論』。政治は宗教・道徳から切り離して考えるべきであるという現実主義的な政治理論を創始したマキャベリの生涯と名言をご紹介します。
目次
マキャベリの生涯
1469年5月3日、ニッコロ・マキャベリは、フィレンツェ共和国に生まれました。
マキャベリ家はフィレンツェの名家であり、父は弁護士でした。
1498年、29歳のときに共和国政府の第2書記局長に選出され、統領秘書官を兼任しました。
この頃、イタリアの海洋国家ピサがフィレンツェのコントロール下から離れており、海を持たないフィレンツェがピサの港を自由に使えるように、マキャベリはピサの再領有を主張しました。
その後、フィレンツェ共和国は傭兵やフランス兵を借りてピサに軍事侵攻をするも失敗。マキャベリはこの経験から国の根源は傭兵に頼らない軍事力にあると確信し、国民軍を創設しました。
しかし、1512年、国民軍はメディチ家の復権を後押しするハプスブルク家スペインの前に屈服し、マキャベリは第2書記局長の職を解かれて失職しました。
43歳にして隠遁生活に入ったマキャベリは、農業をしながら、執筆する日々を送りました。執筆活動は政治・歴史・軍事から劇作までに及び、喜劇は大好評を博して著作家としての名声を得ました。
その後、マキャベリはメディチ家が君臨する新政権への就職を模索。1516年にロレンツォ・デ・メディチが就任すると、47歳のマキャベリに謁見の機会が与えられ、代表作である『君主論』を献上。
『君主論』には君主たるものがいかにして権力を維持し政治を安定させるか、という政治手法が書き記されていました。
マキャベリはメディチ家政権下で顧問的に用いられるようになりましたが、1527年に発生したローマ劫掠(神聖ローマ皇帝カール5世がローマを攻撃して破壊)でメディチ家がフィレンツェから追放されると、マキャベリも政権から追放されました。
1527年6月、ニッコロ・マキャベリは失意のうちに病死、58年の生涯を閉じました。
【関連・参考サイト】
ニッコロ・マキャヴェッリ(Wikipedia)
マキャベリの名言(1)
困難な時代には、真の力量を備えた人物が活躍するが、太平の世の中では、財の豊かな者や門閥に支えられた者が、わが世の春を謳歌することになる。- マキャベリ -
自らの地位の存亡に関わらない悪評でも、可能な限りそれを避けうるほどに賢明である必要がある。
もっとも、それが不可能であれば、あまり気にすることなくそのままにしておいてよい。- マキャベリ -
私は断言しても良いが、中立を保つことは、あまり有効な選択ではないと思う。- マキャベリ -
危険を伴わずに、偉大なことは何も成し遂げられなかった。- マキャベリ -
持続的な成功を求める者はだれであれ、時代に合わせて行動を変えなければならない。- マキャベリ -
議題が何であれ、進むべき方向と反対に議論は進み、本当に有益な意見を述べる者ではなく、うわべを取り繕った意見を述べる者が会議を支配する。- マキャベリ -
戦いは、大軍を投入して短期間に勝を決せよ。- マキャベリ -
人に危害を加えるときは、復讐をおそれる必要がないように痛烈にやらなければならない。- マキャベリ -
国家の指導者たる者は、必要に迫られてやむを得ず行ったことでも、自ら進んで選択した結果であるかのように思わせることが重要である。- マキャベリ -
人間は往々にして小鳥のような行動を取る。
小鳥は目の前の餌だけに注意を奪われ、鷹が頭上を飛んでいるのに気付かない。- マキャベリ -
運命の女神は、積極果敢な行動をとる人間に味方する。- マキャベリ -
民衆は、群れを成せば大胆な行為に出るが、個人となれば臆病である。- マキャベリ -
新秩序の導入は、旧制度下で上手くやってきた者すべてを敵にまわすことになる。- マキャベリ -
人間の意見なるものがいかに偽りに満ち、いかに誤った判断でゆがめられているかは、あきれ返るほどである。- マキャベリ -
人間というものは、わが身のことになればおのれを甘やかし、たやすく騙されてしまう。- マキャベリ -
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