1809年2月12日にアメリカ中東部のケンタッキー州ラルー郡に生まれたエイブラハム・リンカーン。
その名言には「もし、木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やすだろう」などがあります。
アメリカで「史上最高の大統領」とも称されるエイブラハム・リンカーンの生涯と名言をご紹介します。
目次
エイブラハム・リンカーンの生涯
1809年2月12日、エイブラハム・リンカーンは、アメリカ中東部のケンタッキー州ラルー郡に生まれました。
子ども時代、リンカーンは巡回教師から基礎教育をわずかに受けた程度であり、それ以外は独学で学びました。
1832年、23歳のときにイリノイ州議会議員選挙に出馬するも落選。リンカーンは郵便局長や測量士を務めた後、独学で法律を学び弁護士になりました。
25歳のときに再び州議会議員選挙に出馬して当選。37歳でアメリカ合衆国下院議員に選出されました。
1860年、51歳のリンカーンは共和党大統領候補に選出され、民主党候補を破って第16代アメリカ合衆国大統領に当選しました。
奴隷制に反対するリンカーンの当選が決まると、分離主義者らは連邦から脱退する意思を明らかにし、1860年12月にサウスカロライナ州が脱退条例を採択。フロリダ州、ミシシッピ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が続きました。
リンカーンは、分離独として戦争を指揮、戦時中の1862年9月には奴隷解放宣言を行いました。
1863年7月のゲティスバーグの戦い立を宣言した南部諸州が構成した「アメリカ連合国」の認知を拒否。和平協議も失敗し、1861年4月、アメリカ連合国(南軍)はサウスカロライナ州サムター要塞を攻撃し、南北戦争が勃発しました。
リンカーンは最高司令官で北軍が大きな勝利を収めると、同年11月に「人民の、人民による、人民のための政治」で有名なゲティスバーグ演説を行いました。
1864年、55歳のリンカーンは大統領選挙で圧勝して再選されました。
翌1865年4月9日、南軍の総司令官リー将軍が降伏。その5日後、リンカーンは観劇中に至近距離から拳銃で撃たれ死去、56年の生涯を閉じました。
【関連・参考サイト】
エイブラハム・リンカーン(Wikipedia)
ゲティスバーグ演説(Wikipedia)
エイブラハム・リンカーンの名言(1)
直接会って話すのが、お互いの悪感情を一掃する最良の方法である。- エイブラハム・リンカーン -
そのことはできる、それをやる、と決断せよ。
それからその方法を見つけるのだ。- エイブラハム・リンカーン -
もし、木を切り倒すのに6時間与えられたら、私は最初の4時間を斧を研ぐのに費やすだろう。- エイブラハム・リンカーン -
主は平凡な顔立ちの者を好むのだ。
それゆえにそういう顔をたくさん造られたのだ。- エイブラハム・リンカーン -
人間は、たとえ相手が自分の一番関心のある目標に導いてくれる指導者であっても、自分の気持ちを理解してくれない者には、ついて行かない。- エイブラハム・リンカーン -
象の後ろ足を捕まえて、象が逃げ出そうとしたなら、行かせてやるのが一番だ。- エイブラハム・リンカーン -
一部の人たちを常に、そしてすべての人たちを一時だますことはできるが、すべての人たちを常にだますことはできない。- エイブラハム・リンカーン -
大統領にしても、靴磨きにしても、世のため、人のために働く公僕だ。
世の中に卑しい業というものはない。
ただし、心の卑しい人はいるものだが。- エイブラハム・リンカーン -
大抵の人々は、自分で決心した程度だけ幸福になれる。- エイブラハム・リンカーン -
捕まえたときに、追いかける楽しみは終わる。- エイブラハム・リンカーン -
馬の行きたい方向に馬を走らせるには手間も労力も要らない。- エイブラハム・リンカーン -
40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはならない。- エイブラハム・リンカーン -
こうして人間に生まれてきたからには、やはり何か生きがいが感じられるまで生きている義務があろう。- エイブラハム・リンカーン -
私は一つの痛切な願いを持っている。
それは、私がこの世に住んだがゆえに、少しだけ世の中が良くなったということが認められるまでは、生きていたいということだ。- エイブラハム・リンカーン -
今日出来ることを、明日に残すな。- エイブラハム・リンカーン -
次ページへ続きます。
次ページへ