1596年3月31日に中部フランスのアンドル=エ=ロワール県ラ・エーに生まれたルネ・デカルト。
その名言には「我思う、ゆえに我あり」などがあります。
合理主義哲学の祖であり、「近世哲学の父」として知られるデカルトの生涯と名言をご紹介します。
目次
デカルトの生涯
1596年3月31日、ルネ・デカルトは、中部フランスのアンドル=エ=ロワール県ラ・エーに生まれました。父は高等法院評定官でした。
1歳のときに病弱だった母が亡くなり、デカルトは祖母と乳母に育てられました。
10歳のときにカトリックの男子修道会であるイエズス会の学校に入学。優秀であったデカルトは特に数学を好んだといいます。
1614年、18歳のときにポワティエ大学に進学して法学・医学を修め、20歳のときに法学士の学位を受けて卒業。
1618年、22歳のときにオランダに赴きナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わりました。この軍隊では優れた数学者や技師などを起用して新兵器の開発を行っており、デカルトは自然科学者との交流を求めてマウリッツの軍隊を選んだと考えられています。
翌年、三十年戦争(カトリックとプロテスタントの戦争)が始まったことを知るとドイツへ向かい、カトリック派の軍隊に入っています。
27歳から29歳にかけてヴェネツィアやローマを旅行。その後、パリに滞在し、哲学者やさまざまな学者と交友を深めました。
1628年、32歳のときにオランダに移住し、本格的に哲学にとりかかりました。
1637年、41歳のときに『方法序説』を公刊。デカルトは、方法的懐疑によって、一切を疑ったのち、このように疑っている自己の存在は疑うべくもない真理であるとし、「我思う、ゆえに我あり」と表現して、これを哲学の基礎としました。
1641年には『省察』を刊行。デカルトの評判は高まりましたが、神学教授によって「無神論を広める思想家」として非難も受けました。
1649年、53歳のときにスウェーデン女王クリスティーナから招きを受け、ストックホルムを訪問。1650年1月から女王のために講義を行いましたが、風邪をこじらせて肺炎を併発。
1650年2月、ルネ・デカルトは死去、53年の生涯を閉じました。
デカルトは、イギリスのフランシス・ベーコン(1561~1626)と並んで「近代哲学の祖」と称されます。
【関連・参考サイト】
ルネ・デカルト(Wikipedia)
デカルトの名言(1)
我思う、ゆえに我あり。- デカルト -
秀でたる知性を有するだけでは十分ではない。
大切なのは、それをうまく活用することである。- デカルト -
実際に人々が何を考えているのかを理解するには、彼らの言葉ではなく、行動に注意を払えばよい。- デカルト -
怒りによって赤くなる人々は、怒りによって青くなる人々よりも怖ろしくない。- デカルト -
完全数は完全な人間と同様、極めてまれだ。- デカルト -
欠陥はいつも、それを取り除くために必要な変化よりはずっと耐えやすいものとなっている。- デカルト -
自然は人間を嫌う。- デカルト -
我々は、すべてのものが我々のためにつくられたのだと思ってはならない。- デカルト -
自分自身の思考を除いて、我々の中で絶対的な力など存在しない。- デカルト -
架空の喜びはしばしば本物の悲しみよりも価値がある。- デカルト -
精神を思う存分働かせたいと願うなら、体の健康に留意することだ。- デカルト -
世界ではなく、自分自身を征服せよ。- デカルト -
疑いは知のはじまりである。- デカルト -
決断ができない人間は、欲望が大きすぎるか、悟性が足りないのだ。- デカルト -
楽観主義者は何もないところに明かりを見るが、なぜ悲観主義者はいつだってその明かりを吹き消そうとするのだろうか?- デカルト -
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