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瀬戸内寂聴の名言

1922年(大正11年)5月15日に徳島県徳島市塀裏町に生まれた瀬戸内寂聴。

その名言には「私は多く傷つき、多く苦しんだ人が好きです。挫折感の深い人は、その分、愛の深い人になります」などがあります。

小説家であり、天台宗の尼僧でもあった瀬戸内寂聴の生涯と名言をご紹介します。

瀬戸内寂聴の生涯

瀬戸内寂聴
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1922年(大正11年)5月15日、瀬戸内寂聴は、徳島県徳島市塀裏町(現在の幸町)で仏壇店を営む一家に生まれました。

子どものころは体が弱く、本を読むのが好きだったといいます。

1940年(昭和15年)、18歳のときに東京女子大学国語専攻部に入学。在学中、20歳のときにお見合い結婚をし、22歳で女の子を出産しました。

その後、学者であった夫の教え子と恋に落ち、1948年(昭和23年)、26歳のときに「小説家になります」といって、夫と3歳の長女を残して家を出ました。

瀬戸内寂聴は京都で働きながら小説を執筆しました。

1950年(昭和25年)、28歳のときに正式に離婚。本格的に小説家を目指して上京。少女小説や童話を書きました。

1958年(昭和33年)、36歳のときに『花芯』を発表するも、ポルノ小説であるとの批判にさらされ、批評家より「子宮作家」とレッテルを貼られました。

1963年(昭和38年)、41歳のときに不倫の恋愛体験を描いた『夏の終り』で女流文学賞を受賞。作家としての地位を確立しました。

1973年(昭和48年)、51歳のときに出家。尼僧として仏道を修めながら、執筆活動も続けました。一遍上人を描いた『花に問え』(1992年)では谷崎潤一郎賞を受賞しています。

講演では「笑うこと」が大切であると説き、座右の銘は「生きることは愛すること」。長女とは出家後に和解したといいます。

2021年(令和3年)11月、瀬戸内寂聴は死去、99年の生涯を閉じました。自身の墓石に刻む言葉は「愛した、書いた、祈った」と決めていました。

【関連・参考サイト】
瀬戸内寂聴(Wikipedia)

瀬戸内寂聴の名言(1)

人に憎しみを持たないようにすると、必ず綺麗になりますよ。
やさしい心と奉仕の精神が美しさと若さを保つ何よりの化粧品なのです。
- 瀬戸内寂聴 -

心の風通しを良くしておきましょう。
誰にも悩みを聞いてもらえずうつむいていると病気になります。
信頼できる人に相談して、心をすっとさせましょう。
- 瀬戸内寂聴 -

おしゃれの女は、掃除が下手と見て、だいたいまちがいない。- 瀬戸内寂聴 -

愛する者の死と真向きになったとき、人は初めてその人への愛の深さに気づきます。
「私の命と取り替えてください」と祈る時の、その純粋な愛の高まりこそ、この世で最も尊いものでしょう。
- 瀬戸内寂聴 -

男女の間では、憎しみは愛の裏返しです。
嫉妬もまた愛のバロメーターです。
- 瀬戸内寂聴 -

人間は生まれた時から一人で生まれ、死ぬ時も一人で死んでゆきます。
孤独は人間の本性なのです。
だからこそ、人は他の人を求め、愛し、肌であたため合いたいのです。
- 瀬戸内寂聴 -

あなたはたった一つの尊い命をもってこの世に生まれた、大切な存在です。- 瀬戸内寂聴 -

世間的に申し分のない夫や妻であっても、相手が欲していなければ、それは悪夫、悪妻です。
そんな時はさっさと別れて、自分の良さを認めてくれる相手を探すことです。
- 瀬戸内寂聴 -

私は多く傷つき、多く苦しんだ人が好きです。
挫折感の深い人は、その分、愛の深い人になります。
- 瀬戸内寂聴 -

年を取るということは、人の言うことを聞かないでいいということだと思います。
あとちょっとしか生きないんだからと好きなことをしたらいいんです。
周りを気にして人生を狭く生きることはありません。
- 瀬戸内寂聴 -

人とつきあうのに秘訣があるとすれば、それはまずこちらが相手を好きになってしまうことではないでしょうか。- 瀬戸内寂聴 -

私は物心ついた時から職人の娘でした。
盆暮れしか休みが無いのが当然でしたから、人間は働くものだと思って育ちました。
これは無言のしつけだったのでしょう。
- 瀬戸内寂聴 -

美しいもの、けなげなもの、可愛いもの、または真に強い勇ましいものに感動して、思わず感情がこみあげて、涙があふれるというのは若さの証しです。
ものに感動しないのが年をとったということでしょう。
- 瀬戸内寂聴 -

男女の恋の決算書はあくまでフィフティ・フィフティ。- 瀬戸内寂聴 -

あなたは苦しんだ分だけ、愛の深い人に育っているのですよ。- 瀬戸内寂聴 -

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