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6月の出来事

6月に発生した日本や世界の歴史的な出来事覚えておきたい出来事をご紹介します。

今日は何の日(366日カレンダー)

6月の歴史的な出来事

6月に発生した日本や世界における歴史的な出来事の一覧です。

日付をクリックすると各日の詳細ページで出来事の詳細がご覧いただけます。

6月の出来事一覧
月日 出来事
6月1日 女性宣教師が横浜にフェリス女学院を設立(1875年)
6月2日 菅生事件 – 公安警察の自作自演(1952年)
6月3日 幻の馬トキノミノルが無敗のまま日本ダービーを制覇(1951年)
6月4日 ピューリッツァー賞の第1回授賞式が行われる(1917年)
6月5日 小説『アンクル・トムの小屋』が奴隷制度廃止運動の機関紙で連載開始(1851年)
6月6日 ロンドンでYMCA(キリスト教青年会)が誕生(1844年)
6月7日 浦上四番崩れ – 明治政府が隠れキリシタンを流罪にする(1868年)
6月8日 日本二十六聖人 – パウロ三木ら26人が列聖される(1862年)
6月9日 ナポレオン後のウィーン体制が始まる(1815年)
6月10日 七博士意見書 – 教授7名が日本政府に対露強硬外交を迫る(1903年)
6月11日 フランク・モリスらが脱獄不可能のアルカトラズ連邦刑務所から脱獄(1962年)
6月12日 マン島TTレースでホンダが初優勝(1961年)
6月13日 英葡永久同盟 – イギリスとポルトガルの世界最古の軍事同盟(1373年)
6月14日 カトリック教会が禁書目録を廃止(1966年)
6月15日 イングランド王が自身の権力を制限するマグナ・カルタを承認(1215年)
6月16日 ソウェト蜂起 – 南アで黒人学生のデモに警察が発砲(1976年)
6月17日 ウォーターゲート事件が発覚 – 米国史上最大の政治スキャンダル(1972年)
6月18日 米英戦争 – アメリカがイギリスに宣戦布告(1812年)
6月19日 改正公職選挙法施行 – 選挙権年齢が18歳以上に引き下げられる(2016年)
6月20日 鹿児島市にデラ台風が上陸 – 死者・行方不明者468人(1949年)
6月21日 シャクシャインの戦い – アイヌ民族が一斉蜂起(1669年)
6月22日 ガリレオに有罪判決 – 地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる(1633年)
6月23日 スリの大親分・仕立屋銀次を逮捕(1909年)
6月24日 シャムからタイに国名を変更(1939年)
6月25日 日本初の馬車鉄道が新橋 – 日本橋間で開業(1882年)
6月26日 ハーメルンの笛吹き男 – 130人の子どもが集団失踪(1284年)
6月27日 住宅街で化学兵器、松本サリン事件が発生(1994年)
6月28日 曾我兄弟の仇討ち(1193年)
6月29日 長篠の戦い – 日本戦術史上の画期的な戦い(1575年)
6月30日 隕石によるツングースカ大爆発 – 威力は広島型原爆の185倍(1908年)

6月の覚えておきたい出来事

6月に発生した日本や世界の代表的な出来事をご紹介します。

6月1日の出来事

6月1日の出来事
女性宣教師が横浜にフェリス女学院を開校(1875年) 1875年(明治8年)6月1日、横浜の外国人居留地においてフェリス女学院の前身である「フェリス・セミナリー」の開校式が行われました。
創立者は日本に派遣されたアメリカ人女性宣教師のメアリー・キダー。彼女は1870年に、ジェームス・カーティス・ヘボンによって横浜居留地に開設されたヘボン塾の英語の授業を引き継ぎ、これがフェリス女学院の出発点となりました。
ヘボンは1887年(明治20年)に明治学院を設立したため、ヘボン塾は明治学院とフェリス女学院の源流とされています。
学校法人フェリス女学院(Wikipedia)
渋沢栄一らが設立した東京株式取引所が営業を開始(1878年) 1878年(明治11年)6月1日、東京証券取引所の前身である「東京株式取引所」が営業を開始しました。
日本に株式取引所が必要と考えていた渋沢栄一らが1878年5月に、東京・兜町に東京株式取引所を設立し、6月1日から取引を開始しました。
最初の上場物件は公債でしたが、年末までに第一国立銀行をはじめ株式会社4社が上場を果たしました。
東京株式取引所(Wikipedia)

6月2日の出来事

6月2日の出来事
菅生事件 – 公安警察の自作自演(1952年) 1952年(昭和27年)6月2日午前0時過ぎ、大分県菅生村(現在の竹田市菅生)の駐在所でダイナマイト入りのビール瓶が爆発。張り込んでいた約100人の警官が近くにいた2人を含め共産党員5人を即日逮捕しました。
これは公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の事件であり、協力者を装った「市木春秋」と名乗る男が「寄付したい」と共産党員2人をおびきだし、警察が駐在所内部に仕掛けた爆弾を爆発させたものでした。
その後、弁護団や報道機関の調査で「市木春秋」が現職警察官であることがつきとめられ、上司の命令で「おとり」となって党員を罠にはめたことを証言。被告たちは全員無罪となりました。
菅生事件(Wikipedia)
練馬三億円事件が発生(1990年) 1990年(平成2年)6月2日深夜、東京都練馬区の建設会社の社長宅に男2人組が押し入り、6月4日正午ごろまでの約38時間、社長ら家族7人を脅迫・監禁し、3億円を強奪した強盗事件が発生しました。
この事件で逮捕された犯人の1人は服役後、マブチモーター社長宅殺人放火事件(2002年)など、3件の連続殺人事件を起こし、死刑が確定しています。
練馬三億円事件(Wikipedia)

6月3日の出来事

6月3日の出来事
トキノミノルが日本ダービーを快勝 – 17日後に急死し幻の馬へ(1951年) 1951年(昭和26年)6月3日、中央競馬の「日本ダービー」で、脚の故障を押して出場したトキノミノルがコースレコードで快勝しました。
トキノミノルは、10戦10勝(うちレコードタイム7回)という成績でクラシック二冠を制しましたが、日本ダービーの17日後に破傷風で急死しました。
驚異的な強さと短い生涯からダービーに勝つために生まれてきた「幻の馬」であると称されています。
トキノミノル(Wikipedia)
雲仙普賢岳で大火砕流が発生し死者43人(1991年) 1991年(平成3年)6月3日、長崎県・島原半島にある雲仙普賢岳で溶岩ドームが崩れ、大火砕流が発生しました。
これにより避難勧告区域内にいた報道陣16人と同行のタクシー運転手4人、警戒中の消防団員12人、警察官2人、住民6人、火山学者3人の合計43人が巻き込まれ亡くなりました。
雲仙岳(Wikipedia)

6月4日の出来事

6月4日の出来事
ピューリッツァー賞の第1回授賞式が行われる(1917年) 1917年(大正6年)6月4日、アメリカで第1回ピューリッツァー賞の授賞式が行われました。
アメリカの新聞王ジョーゼフ・ピューリツァーの遺言により創設されたピューリッツァー賞は、アメリカのジャーナリズム、文学、音楽の各分野における優れた功績に対して毎年授与される賞であり、ジャーナリストのノーベル賞ともいわれる栄誉ある賞です。
ジャーナリズムの公益部門を最上の賞とし、その受賞者には金メダルが授与されます。ジャーナリズム部門ではアメリカでの掲載や発表があれば外国人にも受賞の機会があり、これまで写真部門で3人の日本人が受賞しています。
ピューリッツァー賞(Wikipedia)
近江絹糸争議 – 女子工員らが結婚・外出の自由などを要求しストライキを開始(1954年) 1954年(昭和29年)6月2日、近江絹糸紡績の女子工員らが結婚・外出の自由、私物検査の停止、宗教行事の強制反対など22項目を会社側に要求しました。
これを会社側が拒否したため、105日間におよぶストライキを開始し、会社側と激しく対立しました。
ストライキは世論の支持にも支えられ、組合の全面勝利で終結しました。
この勝利は同じような前近代的な労務管理のもとにあった多くの会社の労働者を勇気づけ、権利闘争が全国に広がりました。
近江絹糸争議(Wikipedia)
天安門事件 – 学生らを武力鎮圧へ(1989年) 1989年(平成元年)6月4日、中国・北京の天安門広場に集まり民主化を求める学生、市民らのデモ隊を人民解放軍が武力で鎮圧。多くの学生らが犠牲になりました。
事件後、学生や市民の支持が厚かった趙紫陽総書記は解任され、江沢民が後任に選ばれました。
一方、民主化を求める活動家や学者、文化人らが海外に亡命しました。
六四天安門事件(Wikipedia)

6月5日の出来事

6月5日の出来事
小説『アンクル・トムの小屋』が奴隷制度廃止運動の機関紙で連載開始(1851年) 1851年6月5日、ハリエット・ビーチャー・ストウ(ストウ夫人)の小説『アンクル・トムの小屋』が奴隷制度廃止運動の機関紙で連載を開始しました。
この小説では、善良な黒人奴隷トムがたどる悲惨な生涯が描かれており、キリスト教的人道主義から奴隷制を批判した本書により、奴隷解放の気運が大きく促進されました。
その後アメリカは奴隷解放問題を引き金にして南北戦争(1861~1865)に突入。戦争中にリンカーン大統領がストウ夫人と会見した際、「あなたのような小さなご婦人が、この大きな戦争を引き起こしたのですね」と挨拶したといいます。
一方で、作中のトムの従順な態度から、黒人社会ではこの作品に対する評価が否定的なものに変化し、現在、黒人の間で「アンクル・トム」は「白人に媚を売る黒人」「卑屈で白人に従順な黒人」という軽蔑的な意味で使われています。
アンクル・トムの小屋(Wikipedia)
マーシャル・プランを表明 – 東西ヨーロッパの冷戦激化へ(1947年) 1947年(昭和22年)6月5日、アメリカのトルーマン政権の国務長官マーシャルが、アメリカがヨーロッパ諸国に対して大規模な復興援助を与える用意があることを表明しました。
ヨーロッパはすでに東西に分裂し、冷戦も始まっていたため、ソ連と東欧諸国は計画への参加を拒否し、西欧16か国がマーシャル・プラン(復興援助計画)を受け入れました。
マーシャル・プランによって西欧諸国の経済再建と共産主義勢力の後退に成功しましたが、東西ヨーロッパの冷戦は激化しました。
マーシャル・プラン(Wikipedia)

6月6日の出来事

6月6日の出来事
ロンドンでYMCA(キリスト教青年会)が誕生(1844年) 1844年6月6日、イギリスのロンドンにおいて、12人のキリスト教青年が、青少年の生活改善事業のための奉仕組織としてYMCA(キリスト教青年会)を創立しました。当時、イギリスでは産業革命が進み、劣悪な労働環境の中で子どもまでが働かされていた時代でした。
活動の輪はヨーロッパやアメリカ各地へ広がり、1855年にはパリで最初の世界YMCA大会が開かれました。日本では1880年(明治13年)に東京YMCAが設立され、英語教育、職業教育、体育事業、野外教育などが行われました。
現在、YMCAは世界120の国と地域に広まり、約6500万人以上が活動する世界最大規模の非営利団体になっています。YMCAは「Young Men’s Christian Association」の略であり、キリスト教青年会と訳されますが、布教や伝道をする団体ではなく、宗教を問わず、すべての人に開かれています。
キリスト教青年会(Wikipedia)
北海道の幌内ダムが決壊し、死者60人(1941年) 1941年(昭和16年)6月6日、北海道紋別郡雄武町の幌内ダムが決壊しました。
幌内川流域を集中豪雨が襲い、幌内川の下流に建設された幌内ダムが水圧に耐え切れず決壊。ダム湖の水は濁流となって下流にある集落に押し寄せ、死者60人という大惨事を引き起こしました。
幌内ダムは発電用として造られましたが、その後発電所が廃止され、現在は砂防用ダムとなっています。
幌内ダム(Wikipedia)

6月7日の出来事

6月7日の出来事
スペインとポルトガルがトルデシリャス条約を締結 – スペインがアメリカ大陸のほぼ全域で優先権を得る(1494年) 1494年6月7日、スペインとポルトガルの間で「トルデシリャス条約」が締結されました。
この条約はコロンブスの新世界(新大陸)発見(1492年)を受け、両国が大西洋の植民地の優先権を定める目的で結んだ条約です。
この条約によりスペインはアメリカ大陸の全域(ポルトガル領となったブラジルを除く)で優先権を持つことができました。
一方、フランスやイギリス、オランダなどは領土獲得の優先権から締め出されるかたちとなりました。
トルデシリャス条約(Wikipedia)
浦上四番崩れ – 明治政府が隠れキリシタンを流罪にする(1868年) 1868年(明治元年) 6月7日、太政官達により、長崎・浦上村の隠れキリシタンが流罪となりました。
幕末の1865年にフランス人の礼拝堂として長崎に「大浦天主堂」が建設され、完成後に浦上村から15人ほどの男女が訪れ、神父にキリスト教の信仰をもっていることを告白しました(信徒発見)。
その2年後の1867年、浦上村の信徒が仏式の葬儀を拒否したことでその存在が明るみになり、信徒は江戸幕府によって捕縛され拷問を受けました。
翌年に誕生した明治政府もキリスト教禁止政策を引き継ぎ、1868年6月7日に信徒の流罪を決定。流刑先では拷問が行われました。
これが欧米諸国に伝わると日本は激しい非難を受け、明治政府はキリシタン弾圧が不平等条約の改正の障害になっていると判断し、1873年2月に信徒を釈放しました。
各地に配流された信徒3394人のうち662人が命を落とし、生き残った信徒たちは1879年に「浦上天主堂」を建てました。
浦上四番崩れ(Wikipedia)
バビロン作戦 – イスラエル空軍機がイラクの原子炉を爆撃(1981年) 1981年(昭和56年)6月7日、イスラエル空軍機がイラク領空に侵入し、イラクのバクダッド近郊で建設中だった原子力発電所を爆撃・破壊しました(バビロン作戦)。
イスラエルは、イラクが核兵器を持つ危険性があるとして、先制的自衛を理由に先制攻撃を行ったとしましたが、イスラエルは国際社会から非難されました。
イラク原子炉爆撃事件(Wikipedia)

6月8日の出来事

6月8日の出来事
日本二十六聖人 – パウロ三木ら26人が列聖される(1862年) 1862年6月8日、豊臣秀吉の命令によって1597年に長崎の西坂の丘で磔の刑に処された26人のカトリック信者が、ローマ教皇ピウス9世によって聖人の列に加えられました。
殉教した26人は、聖パウロ三木ら20人の日本人と6人の外国人宣教師でした。彼らは列聖され「日本二十六聖人」と呼ばれるようになりました。
豊臣秀吉は、1587年にキリシタン禁教令を発布するも、この時点では大規模な迫害は行われていませんでした。
しかし、1596年に土佐に漂着したスペイン船サン=フェリペ号の乗組員が「スペイン国王はまず宣教師を海外に遣わし、布教事業とともに征服事業を進める」という意味のことを発言。これを伝え聞いた秀吉は、ヨーロッパ諸国の侵略を疑い、大阪や京都でキリシタンを捕縛して処刑するよう命じました。
日本二十六聖人(Wikipedia)
附属池田小事件 – 児童8人が死亡(2001年) 2001年(平成13年)6月8日10時20分頃、大阪府池田市の小学校に凶器を持った男が侵入して児童を襲い、1年生・2年生の児童8人が死亡しました。また、児童や教師など15人が重軽傷を負う惨事となりました。
犯行の動機は「社会への憎悪」とされています。
犯人は死刑が確定し、2004年に刑が執行されました。
附属池田小事件(Wikipedia)
秋葉原通り魔事件 – 7人が死亡(2008年) 2008年(平成20年)6月8日12時30分過ぎ、東京・秋葉原の歩行者天国に男が2トントラックで突入して、通行人5人をはね、車を降りて道路に倒れこむ被害者の救護に集まった通行人、警察官ら17人を次々とダガーナイフで刺しました。一連の犯行によって男女7人が死亡、10人が重軽傷を負いました。
犯行の動機は「携帯サイトの掲示板の嫌がらせをやめてほしいと伝えたかった」とされています。犯人は死刑が確定し、2022年に刑が執行されました。
秋葉原通り魔事件(Wikipedia)

6月9日の出来事

6月9日の出来事
ナポレオン後のウィーン体制が始まる(1815年) 1815年6月9日、ウィーン会議において「ウィーン議定書」が締結され、ナポレオン退位後の新しい国際秩序である「ウィーン体制」が成立しました。
大国であるロシア、プロイセン、オーストリア、イギリスが主導権を握って決定されたウィーン体制は、ヨーロッパをフランス革命・ナポレオン以前の絶対王政の状態に復活させるとともに、自由主義や民族主義運動を抑圧する保守反動体制となりました。
これにより約30年におよぶ安定をヨーロッパにもたらしましたが、1848年にフランスの市民が蜂起して王政を終わらせた二月革命と、その影響下でベルリンとウィーンで起こった自由主義を目指す三月革命によって、ウィーン体制は終焉を迎えました。
ウィーン会議(Wikipedia)
新幹線無差別殺傷事件(2018年) 2018年(平成30年)6月9日、神奈川県を走行中の東海道新幹線の車内で男が乗客3人をナタで切りつけ、1人を殺害し、2人に重傷を負わせました。
犯行の動機は「無期懲役による刑務所生活への憧れ」とされています。2020年に犯人の無期懲役が確定しています。
この事件を受けて、新幹線を運行する各社は新幹線の安全対策強化に取り組んでいます。
2018年東海道新幹線車内殺傷事件(Wikipedia)

6月10日の出来事

6月10日の出来事
七博士意見書 – 教授7人が政府に対露強硬政策を迫る(1903年) 1903年(明治36年)6月10日、大学教授7人が桂首相や小村外相らに意見書を提出しました。
この意見書は日露戦争(1904~1905)開戦直前に、戸水寛人ら6人の東京帝国大学教授と1人の学習院教授によって書かれ、新聞にも掲載されました。
その内容は、桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、ロシアの満州からの完全撤退を唱え、対露強硬政策の選択を迫ったものでした。
戸水寛人は日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の締結にも反対を唱え、積極的に政治活動を行ったため、文部大臣は「文官分限令」を適用して戸水を休職処分としました。
しかし、東大の教授陣は言論・研究の自由の侵害だとして強く抗議。その結果戸水の復職が実現しました(戸水事件)。本事件を契機に、日本の大学に自治の慣行が確立されていくことになりました。
七博士意見書(Wikipedia)
日仏協約に調印 – アジアにおける両国の支配権を確認(1907年) 1907年(明治40年)6月10日、パリで日本とフランスの協約が調印されました。
この協約は、アジアにおける日本とフランスの利益を保護するためのものであり、フランスのインドシナ半島支配権と日本の朝鮮・満州南部・台湾の支配権を相互に確認しました。
同年に日露協約を締結した日本は三国協商(英・仏・露)陣営の事実上の一員に加わることになりました。
この協約は太平洋戦争勃発時まで存続しました。
日仏協約(Wikipedia)

6月11日の出来事

6月11日の出来事
ル・マン24時間の悲劇 – レースカーが観客席に飛び込み84人死亡(1955年) 1955年(昭和30年)6月11日、フランスのサルト・サーキットで開催されたル・マン24時間レースで、衝突したレースカーが観客席に飛び込み、ドライバーと観客83人が死亡。モータースポーツ史上最悪の悲劇となりました。
1955年のル・マン24時間レース(Wikipedia)
フランク・モリスが脱獄不可能のアルカトラズ刑務所から脱獄(1962年) 1962年(昭和37年)6月11日、米国カリフォルニア州サンフランシスコ湾内のアルカトラズ島にあるアルカトラズ連邦刑務所からフランク・モリスとアングリン兄弟の3人が脱獄しました。
万全な脱走対策が施されたアルカトラズ連邦刑務所には、他の刑務所で暴力的行為を行った者や脱走の危険がある者などが送られました。
フランク・モリスは1960年1月にアルカトラズ連邦刑務所に護送されると、アングリン兄弟とともに脱獄を計画。約2年間にわたっていかだと自分たちに似せた人形を作り、脱獄用の穴も掘りました。
1962年6月11日の夜、3人は夜の見回り時に気づかれないよう、ベッドに人形の頭を設置し、掘った穴から煙突を登って屋根伝いに脱出。いかだで闇の中へと消えていきました。
翌朝、脱獄に気づいて捜索を開始。いかだの一部が発見されましたが、遺体は見つかりませんでした。
この脱獄劇はクリント・イーストウッド主演の映画『アルカトラズからの脱出』に描かれています。
フランク・モリス(Wikipedia)

6月12日の出来事

6月12日の出来事
桶狭間の戦い – 織田信長が今川義元を討ち取る(1560年) 1560年6月12日、桶狭間の戦いで、2万5千人の大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が敵の作戦の裏をかいて本陣を奇襲し、今川義元を討ち取りました。
戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落。織田信長は徳川家康と同盟を締結して後顧の憂いをなくし西上作戦への専念が可能となり、天下統一の第一歩となりました。
桶狭間の戦い(Wikipedia)
ホンダがマン島TTレースで初優勝(1961年) 1961年(昭和36年)6月12日、マン島TTレースにおいて、ホンダが125cc、250ccの両クラスで初優勝を飾りました。
創業から6年目の1954年(昭和29年)、本田宗一郎が「マン島TTレース出場宣言」を発表。当時世界最高峰のレースとされていたマン島TTレースでの勝利がホンダの世界進出につながると考えました。
それから5年後の1959年、ホンダは念願のマン島TTレース初出場を果たし、125ccクラスで6位に入賞しました。
そして、1961年6月12日、ホンダはマン島TTレースの125cc、250ccの両クラスで1位から5位までを独占。ホンダの名をヨーロッパに広めました。
マン島TTレース(Wikipedia)
宮城県沖地震が発生し、28人が死亡(1978年) 1978年(昭和53年)6月12日17時14分頃、マグニチュード7.4の宮城県沖地震が発生し、宮城、岩手、山形、福島の各県で震度5を観測しました。
倒壊したブロック塀の下敷きになるなど地震の揺れによる被害が大きく、28人が犠牲になりました。
宮城県での負傷者は1万人以上に及びましたが、その中でも屋外への急な飛び出しによる負傷やガラス片や落下物による負傷が目立ちました。また、電気・ガス・水道などのライフラインが大きな被害を受け、市民生活に大きな影響を与えました。
宮城県沖地震 (1978年)(Wikipedia)

6月13日の出来事

6月13日の出来事
英葡永久同盟 – イギリスとポルトガルの世界最古の軍事同盟(1373年) 1373年6月13日、イングランドとポルトガルの間で「英葡永久同盟」が結ばれました。これは現在まで続く世界最古の同盟です。
イングランドとポルトガルの関係は、リスボンをムーア人(イスラム教徒)から取り戻すリスボン攻防戦(1147年)において、イングランドの十字軍が援助したことから始まりました。
英葡永久条約の締結以来、イギリスとポルトガルは互いに戦争をしたことも、敵側に協力したこともありません。
ポルトガルがナポレオン軍と戦った半島戦争(1808~1814)へのイギリスの参加、ポルトガルでの英米基地の設立など、同盟はそれぞれの軍事史を通じて両国に貢献しました。
現在、イギリスとポルトガルは共に北大西洋条約機構(NATO)の加盟国です。
英葡永久同盟(Wikipedia)
戸塚ヨットスクール事件 – 校長らが傷害致死の容疑で逮捕される(1983年) 1983年(昭和58年)6月13日、訓練生の死者・行方不明者が出た戸塚ヨットスクール事件で校長がコーチとともに監禁・傷害致死の容疑で逮捕されました。
校内暴力が社会問題化していた当時、戸塚ヨットスクールはスパルタ式と呼ばれる独自の指導により、多くの非行少年を矯正させたという触れ込みでマスメディアにも登場し、注目されていました。
しかし、訓練中に5人の訓練生が死亡したり行方不明になっていたことが明るみになり、校長ら関係者15人が逮捕、起訴されました。
校長は無罪を主張するも、2002年に懲役6年の刑が確定しました。
戸塚ヨットスクール事件(Wikipedia)
小惑星探査機「はやぶさ」が7年ぶりに地球に帰還(2010年) 2003年(平成15年)5月に小惑星探査機「はやぶさ」が打ち上げられ、2005年9月に小惑星イトカワに到着しました。
しかし、地球に帰還するまで、燃料漏れやエンジン停止、音信不通など、致命的な困難が幾度となく発生しました。
そのトラブルを克服し、2010年(平成22年)6月13日、はやぶさが約60億kmの旅を終え7年ぶりに地球に帰還し、サンプルリターンに成功しました。
月以外の天体に着陸した探査機が帰還したのは世界で初めてのことでした。
はやぶさ (探査機)(Wikipedia)

6月14日の出来事

6月14日の出来事
カトリック教会が禁書目録を廃止(1966年) 1966年(昭和41年)6月14日、カトリック教会が禁書目録を公式に廃止しました。
禁書目録は、カトリックの信仰と道徳に有害であるとして、カトリック教会から読書を禁じられた書物の目録です。出版、保持、販売、翻訳なども禁じられました。
1529年に最初の禁書目録が作成され、その理由には、反カトリック的、不道徳、性的放埒、政治的偏向、魔術書などがありました。
過去に目録にのった有名人には、ヴォルテール(哲学者)、ニコラウス・コペルニクス(天文学者)、バルザック(小説家)、ジャン=ポール・サルトル(哲学者)、ルネ・デカルト(哲学者)、イマヌエル・カント(哲学者)などがいました。
1962年から教会の現代化と現代世界への適応を目的に、第2バチカン公会議が開催され、カトリック教会に残っていた多くの形式的習慣が廃止されました。禁書目録も1966年6月14日に公式に廃止されました。
禁書目録(Wikipedia)
八尾市ヤミ金心中事件 – 取り立てを苦に心中(2003年) 2003年(平成15年)6月14日未明、大阪府八尾市の夫婦ら3人が、ヤミ金業者の違法な取り立てを苦に、電車に投身自殺する心中事件が発生しました。
ヤミ金組織は、全国で法定利息の最大270倍の高金利で貸し付けを行い、約50億円の収益を得ていたことが判明しました。
この事件をきっかけに、取り立ての規制強化や罰則引き上げなどを盛り込んだ「ヤミ金融対策法」が2004年に施行されました。
八尾市ヤミ金心中事件(Wikipedia)
岩手・宮城内陸地震 – 大規模な地すべりが発生(2008年) 2008年(平成20年)6月14日8時43分頃、岩手県内陸南部を震源とするマグニチュード7.2の岩手・宮城内陸地震が発生しました。
震源地に近い岩手県奥州市と宮城県栗原市で震度6強を観測。栗原市では国内最大規模となる大規模な地すべりが発生。栗原市の駒の湯温泉では、宿が土石流にのみ込まれ客や従業員など、7人が犠牲になりました。
この地震による死者・行方不明者は、宮城県を中心に23人にのぼりました。
岩手・宮城内陸地震(Wikipedia)

6月15日の出来事

6月15日の出来事
イングランド王が自身の権力を制限するマグナ・カルタを承認(1215年) 1215年6月15日、重税など横暴な王権をふるっていたイングランド王国のジョン王が、貴族たちに強制されてマグナ・カルタ(大憲章)を承認しました。
マグナ・カルタは、国王の権力を法律で制限するとともに、貴族の特権(徴税制限、財産の所有・相続の権利など)を確認したものでしたが、後に、人民や議会の権利を主張するよりどころとされました。
マグナ・カルタは、民主主義の歴史上もっとも重要な文書とされ、アメリカの独立宣言や憲法にも大きな影響を与えました。2009年にユネスコの世界の記憶(記憶遺産)にも登録されています。
マグナ・カルタ(Wikipedia)
明治三陸地震 – 高さ38mの津波が来襲(1896年) 1896年(明治29年)6月15日19時32分頃、三陸沖を震源とするマグニチュード8.2の明治三陸地震が発生しました。
地震の揺れによる被害はありませんでしたが、地震発生から約30分後に三陸沿岸に大津波が来襲。津波の高さは岩手県大船渡市で38メートルに達するなど、津波による犠牲者は岩手県(約1万8000人)を中心に約2万2000人に達しました。
明治三陸地震(Wikipedia)
喜界島地震 – 奄美大島で震度6に相当する揺れ(1911年) 1911年(明治44年)6月15日23時26分頃、奄美諸島の喜界島近海を震源とするマグニチュード8.0の喜界島地震が発生しました。
この地域では観測史上最大規模の地震であり、奄美大島・名瀬測候所で震度6に相当する揺れを観測したほか、沖縄県・那覇測候所などでも震度5相当の揺れがありました。
喜界島では高さ5メートルを超える津波が到来しています。犠牲者は奄美諸島や沖縄本島を中心に12人にのぼりました。
喜界島地震(Wikipedia)

6月16日の出来事

6月16日の出来事
新潟地震が発生し、26人が死亡(1964年) 1964年(昭和39年)6月16日13時2分頃、新潟県の粟島南方沖を震源とするマグニチュード7.5の新潟地震が発生しました。
新潟県から東北南部にかけて震度5を観測。新潟市では液状化現象によるアパートの倒壊、石油タンクの火災、昭和大橋の落橋といった被害が出ました。
この地震により26人が犠牲となり、7万棟以上の家屋が被害を受けました。
新潟地震(Wikipedia)
ソウェト蜂起 – 南アで黒人学生のデモに警察が発砲(1976年) 1976年(昭和51)年6月16日、南アフリカ共和国ヨハネスブルグ郊外にあるソウェトで黒人学生のデモに警察が発砲する事件が発生しました。
アパルトヘイト(人種隔離政策)を続ける南アフリカ政府は、学校でアフリカーンス語(オランダ系白人の言語)の授業を導入すると決定。アフリカーンス語を「白人支配の象徴」と見なす黒人学生たちの間に反発が起こり、学生たちは1976年6月16日に黒人居住区のソウェトで平和的なデモ行進を行いました。
これに警察隊が発砲し、流血の暴動に発展。騒乱は全土に拡大し、500人以上の犠牲者を出す大惨事となりました。
このソウェト蜂起は黒人の意識高揚につながり、多くの黒人市民がアパルトヘイトの現実に目覚め、抵抗を始めました。しかし、アパルトヘイトが完全撤廃されるまでには、さらに18年の歳月が必要となりました。
ソウェト蜂起(Wikipedia)

6月17日の出来事

6月17日の出来事
沖縄返還協定に調印(1971年) 1971(昭和46年)6月17日、衛星テレビ中継されるなか、日米双方の会場で「沖縄返還協定」の調印が行われました。
翌年の5月15日に沖縄返還協定が発効し、戦後27年間アメリカの統治下にあった沖縄が日本に復帰しました。
沖縄返還協定(Wikipedia)
ウォーターゲート事件 – 米国史上最大の政治スキャンダルへ(1972年) アメリカ大統領選挙戦さなかの1972年(昭和47年)6月17日、何者かが民主党本部のあったウォーターゲート・ビルに侵入し、盗聴器を仕掛けようとして警察に逮捕されました。
その後、犯人グループが共和党のニクソン大統領再選委員会の関係者であることが判明。ワシントン・ポストなどの取材記事によって、政権内部が深く関与していることが暴露されました。
さらにホワイトハウスがこの事件の捜査妨害やもみ消しに直接関わったことが明らかになると、世論は猛反発。議会の大統領弾劾の勢いにも抗しきれなくなり、ニクソン大統領は1974年8月9日に辞任。後任の大統領には副大統領であったジェラルド・R・フォードが昇格しました。
ウォーターゲート事件(Wikipedia)

6月18日の出来事

6月18日の出来事
米英戦争 – アメリカがイギリスに宣戦布告(1812年) 1812年6月18日、アメリカ第4代大統領ジェームズ・マディソン政権のときに、アメリカ議会はイギリスに宣戦布告しました。
戦争の背景には以下のような理由がありました。
・ナポレオン戦争(1803~1815)中のイギリスの海上封鎖により、中立を宣言していたアメリカのヨーロッパ貿易が妨害され経済的打撃を受けたこと
・イギリスがインディアンと手を結び、アメリカの西部開拓を妨害していたこと
・ナポレオン戦争に関わり戦力的な余裕がないイギリスからカナダを奪おうとしたこと
互いに決定打を欠いたまま戦争は長引き、双方ともに疲弊し、開戦から2年半後の1814年12月に「ガン条約」が結ばれて米英戦争は終結しました。
この条約で米英間の北東部国境が確定し、アメリカのカナダへの野心は潰えました。
米英戦争(Wikipedia)
山陽電鉄爆破事件が発生し、死者2人、重傷者29人(1967年) 1967年(昭和42年)6月18日、兵庫県神戸市の電鉄塩屋駅に停車中の電車の網棚に置かれていた荷物が爆発。これにより乗客2人が死亡、29人が重傷を負いました。
時限式爆弾による爆破事件でしたが、犯人が検挙されず公訴時効を迎え、未解決事件となりました。
山陽電鉄爆破事件(Wikipedia)
豊田商事会長刺殺事件 – 報道陣の前で会長が刺殺される(1985年) 1985年(昭和60年)6月18日、豊田商事の詐欺的商法による被害が広がるなか、豊田商事会長の大阪市の自宅マンションに男2人が侵入し、報道陣の前で会長を刺殺しました。犯人は駆けつけた警官に殺人の現行犯で逮捕されました。
豊田商事は金の現物は渡さず預かり証だけを渡すというペーパー商法で約2000億円を集めました。被害者の多くが高齢者でした。
豊田商事会長刺殺事件(Wikipedia)
大阪府北部地震 – 大阪府で震度6弱(2018年) 2018年(平成30年)6月18日7時58分頃、大阪府北部を震源とするマグニチュード6.1の地震が発生しました。
大阪市北区や高槻市、枚方市、茨木市、箕面市で震度6弱を観測しました。
この地震でブロック塀の下敷きなるなど大阪府で6人が犠牲になりました。
大阪府北部地震(Wikipedia)
山形県沖地震 – 新潟・村上市で震度6強(2019年) 2019年(令和元年)6月18日22時22分頃、山形県沖を震源とするマグニチュード6.7の地震が発生しました。
新潟県村上市で震度6強、山形県鶴岡市で震度6弱を観測しました。
この地震で山形県を中心に43人が負傷しました。山形県鶴岡市鼠ケ関では11cmの津波を観測しています。
山形県沖地震(Wikipedia)

6月19日の出来事

6月19日の出来事
アメリカで初めて父の日が祝われる(1910年) 1910年(明治43年)6月19日、アメリカ・ワシントン州で男手ひとつで子ども6人を育て、子どもたちが成人した後に亡くなった父に感謝するため、最初の「父の日」が祝われました。
1966年(昭和41年)、ジョンソン米大統領は父の日を称賛する大統領告示を発し、6月の第3日曜日を父の日としました。
父の日(Wikipedia)
改正公職選挙法施行 – 選挙権年齢が18歳以上に引き下げられる(2016年) 2016年(平成28年)6月19日、18歳選挙権(選挙権年齢を20歳以上から18歳以上に引き下げ)を実現する改正「公職選挙法」が施行されました。
2010年5月に施行された憲法改正のための「国民投票法」で、投票権が18歳以上とされたことから、選挙権も同様に引き下げられることになりました。
なお、成年年齢を18歳に引き下げることを内容とする「民法の一部を改正する法律(成年年齢関係)」は、2022年4月1日に施行されています。
公職選挙法(Wikipedia)

6月20日の出来事

6月20日の出来事
明治東京地震が発生し、死者31人(1894年) 1894年(明治27年)6月20日14時4分頃、東京湾北部を震源とするマグニチュード7.0の明治東京地震が発生しました。
被害の状況から東京湾沿いの下町低地で震度6相当の揺れがあったとみられています。
東京から横浜にかけての被害が大きく、31人が犠牲になりました。
明治東京地震(Wikipedia)
鹿児島市にデラ台風が上陸 – 死者行方不明者468人(1949年) 1949年(昭和24年)6月20日23時過ぎ、沖縄、奄美大島、屋久島と北東に進んでいたデラ台風が北に進路を変え鹿児島市に上陸。翌日にかけて九州を縦断しました。
台風の通過に伴い多くの海難事故が発生。愛媛県の宇和海では多数の漁船が遭難(死者・行方不明者211人)。また、門司(福岡県北九州市)- 高浜(愛媛県松山市)航路の旅客船「青葉丸」が転覆(死者・行方不明者141人)するなど多くの犠牲者がでました。全国での死者・行方不明者数は468人にのぼりました。
デラ台風(Wikipedia)
福岡一家4人殺害事件 – 中国人留学生3人による強盗殺人(2003年) 2003年(平成15年)6月20日深夜、福岡県福岡市で中国人留学生3人が強盗目的で被害者宅に侵入し、口封じ目的で小学生の子ども2人を含む一家4人を殺害。遺体を博多湾に沈めました。
犯人のうち2人は事件後帰国し、中国で逮捕。もう一人は日本で逮捕されました。うち2人の死刑が執行されています。
福岡一家4人殺害事件(Wikipedia)

6月21日の出来事

6月21日の出来事
本能寺の変 – 明智光秀が主君・織田信長を襲撃(1582年) 1582年6月21日早朝、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺に滞在する主君の織田信長を襲撃しました。
信長は包囲されたことを悟り、寺に火を放って自害しました。信長の死によって織田政権は瓦解しましたが、光秀も山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて命を落としました。
明智光秀が謀反を起こした理由については定説が存在せず、多種多様な説があります。
本能寺の変(Wikipedia)
シャクシャインの戦い – アイヌ民族が一斉蜂起(1669年) 江戸時代初期の1669年6月21日、シブチャリ(現在の北海道新ひだか町)のアイヌの首長シャクシャインの呼びかけによりアイヌ民族が一斉蜂起。2千人の軍勢に300人以上の和人が殺害されました。
一斉蜂起の前には漁猟をめぐるアイヌ民族同士の争いがあり、一方が松前藩に武器の援助を要請する使者を送るも、断られました。その帰路に使者の一人が天然痘によって急死。それが松前藩による毒殺であると伝わりました。
松前藩による様々な締め付けがアイヌ民族全体に及び始めていたこともあり、毒殺の誤報を契機にシャクシャインは松前藩との戦いを決意。アイヌ民族全体に参加を呼びかけました。
戦闘は鉄砲の威力で松前藩優位の展開となり、シャクシャインらは助命という条件で和議となりました。しかし和議の約束は偽りで、酒宴に酔ったシャクシャインらは同年11月に松前藩に殺害され、アイヌ側の敗北に終わりました。
この戦いを経て、松前藩は蝦夷地における対アイヌ交易の絶対的主導権を握ることになりました。
シャクシャインの戦い(Wikipedia)
全日空857便ハイジャック事件が発生(1995年) 1995年(平成7年)6月21日、羽田発、函館行の全日空857便が山形上空で1人の男にハイジャックされました。
飛行機は函館空港に着陸。犯人は乗客乗員365人を人質に取って機内に立てこもりました。
翌日未明、50人ほどの警察官が機内に突入して犯人を逮捕。犯人は休職中の53歳の銀行員でした。
全日空857便ハイジャック事件(Wikipedia)

6月22日の出来事

6月22日の出来事
ガリレオに有罪判決 – 地動説を撤回する異端誓絶文を読み上げさせられる(1633年) 1632年2月、イタリアの天文学者ガリレオ・ガリレイはコペルニクスの地動説の解説書『天文対話』を発行しました。
しかし、異端である地動説を紹介したとしてガリレオは訴えられました。
1633年6月22日、カトリック教会の裁判で有罪となったガリレオは、地動説を放棄する旨の異端誓絶文を読み上げさせられました。
その際にガリレオがつぶやいたとされるのが有名な「それでも地球は動いている」という言葉です。
それでも地球は動く(Wikipedia)
戊辰戦争 – 奥羽越列藩同盟成立へ(1868年) 戊辰戦争中の1868年6月22日、東北の25藩による奥羽列藩同盟が成立しました。
さらに北越6藩もこれに加わり、31藩による奥羽越列藩同盟となりました。
これは会津藩、庄内藩の討伐を強行しようとする新政府軍にたいして、東北、北越の諸藩が結んだ軍事同盟です。
奥羽越列藩同盟(Wikipedia)
日韓基本条約に調印し、韓国と国交正常化(1965年) 1965年(昭和40年)6月22日、日本と韓国との間で「日韓基本条約」が調印されました。
この条約は第二次世界大戦後の両国の一般的国交関係を規定したものです。これにより韓国併合以前に締結された諸条約の無効を確認し、漁業区域を取り決めるなど、両国の国交が正常化しました。
また同時に、双方の債権・債務の関係を清算するための「日韓請求権協定」を締結しました。
日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(Wikipedia)

6月23日の出来事

6月23日の出来事
スリの大親分・仕立屋銀次を逮捕(1909年) 1909年(明治42年)6月23日、スリの大親分・仕立屋銀次が逮捕されました。
富田銀次郎は、幕末の1866年に江戸に生まれ、12歳のころに日本橋の仕立屋に奉公に出て、その後、和服の仕立て職人として独立しました。
26歳のときに妻のいる身ながら弟子のクニと恋仲になりました。クニはスリの親分「清水の熊」とその妾との娘だったことから、銀次もスリ稼業に手を染めるようになりました。
清水の死後、銀次は32歳で跡目を継いでスリの親分となり、明治後期には日本一のスリ一味の大親分として知られました。
警察は銀次の一味と持ちつ持たれつの関係を築いていましたが、1906年頃からスリをターゲットにした大規模な捜査が始まり、1909年に元新潟県知事が電車内で伊藤博文から贈られた記念品の金時計を盗まれる事件が発生すると、これをきっかけに銀次らが逮捕されました。
銀次は懲役10年の判決を受けて服役。巨万の富を築いていましたが、出所時はその財産が雲散霧消していたといいます。
仕立屋銀次(Wikipedia)
沖縄戦 – 司令官が自決し組織的戦闘が終結(1945年) 1945年(昭和20年)6月23日未明、沖縄に配備された日本軍(第32軍)の牛島満司令官らが自決し、沖縄戦における組織的戦闘が終結しました。
沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)に沖縄諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いです。
主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は1945年4月2日に始まり、6月23日に終結しました。
80日にもおよぶ地上戦で約20万人が犠牲になり、そのうち住民の死者は約9万4000人。沖縄県民の4人に1人が命を落としました。
沖縄戦(Wikipedia)
自衛隊機乗り逃げ事件 – 酔って消えた自衛官(1973年) 1973年(昭和48年)6月23日夜、栃木県宇都宮市の陸上自衛隊駐屯地から飲酒した自衛官が航空機に乗って飛び去りました。
飛び去ったのは、同駐屯地の航空学校に整備員として所属し、直前まで基地の隊員クラブで飲酒をしていた3等陸曹(20歳)でした。
1か月間にわたる捜索でも機と3曹は発見できず、航空機は燃料が尽きて墜落したものと推定されています。3曹は酔った勢いで航空機を操縦してみたいという衝動にかられ、乗り逃げしたもの考えられています。
自衛隊機乗り逃げ事件(Wikipedia)

6月24日の出来事

6月24日の出来事
シャムからタイに国名を変更(1939年) 1939年(昭和14年)6月24日、タイの首相プレーク・ピブーンソンクラームは、国名を「シャム」から「タイ」に変更しました。
シャム(Siam)はタイ族を指す外国の言葉であったため、タイ族の自称であるタイ(Thai)に変更しました。この「タイ」は自由を意味し、14世紀に建国されたアユタヤ朝は、ムアング・タイ(自由の国)を自称し、諸民族の統一をはかりました。これ以降、タイという統一民族名が用いられるようになりました。
タイ王国(Wikipedia)
ケネス・アーノルド事件 – 空飛ぶ円盤を目撃(1947年) 1947年(昭和22年)6月24日15時頃、アメリカ・ワシントン州のレーニア山付近の上空を自家用機で飛行していた実業家ケネス・アーノルドが、高速で飛行する9個の奇妙な物体を目撃しました。
物体は鎖のように一直線につながり、物体に尾部は見当たらず、平たい形状で、ジェットエンジンの音なども聞こえなかったといいます。
アーノルドが、この物体が飛行するようすをソーサー(カップの受け皿)が水面を跳ねながら飛ぶようだったと説明したことから、マスコミが「フライング・ソーサー」(空飛ぶ円盤)と報じ、この呼称が世界中に広まりました。
この後も謎の飛行物体の目撃情報が相次いだため、アメリカ空軍は調査を開始。しかし正体はつかめず、これらを「UFO」(未確認飛行物体)と総称するようになりました。
ケネス・アーノルド事件(Wikipedia)

6月25日の出来事

6月25日の出来事
日本初の馬車鉄道が新橋 – 日本橋間で開業(1882年) 1882年(明治15年)6月25日、東京馬車鉄道株式会社が運営する日本初の馬車鉄道が、新橋 – 日本橋間で営業を開始しました。
馬車鉄道とは、鉄製のレールの上を走る客車を馬に引かせる乗り物のことです。新橋・上野・浅草を結ぶ東京の目抜き通りで営業を続けましたが、馬の蹄による路面の損傷や馬の糞尿被害が社会問題化しました。
京都では1895年(明治28年)2月から日本初の路面電車が運行し、名古屋、川崎でも運行が始まっていたことから、東京馬車鉄道も路面電車への移行を決定しました。
1903年(明治36年)に東京電車鉄道と社名を改め、同年8月に品川 – 新橋間で東京初の路面電車の営業を開始。翌年3月までにすべての路線を電化し、馬車鉄道の運行を廃止しました。
北朝鮮軍の南進により朝鮮戦争が勃発(1950年) 1950年(昭和25年)6月25日、南北に分断された朝鮮半島で北朝鮮軍が北緯38度線を越えて韓国に進攻し、朝鮮戦争が勃発しました。
アメリカ軍を中心とする国連軍が韓国を支援し、中国義勇軍が北朝鮮を支援。戦いは38度線をはさんで一進一退を続けました。
1953年(昭和28年)7月に板門店で休戦協定が成立し、38度線に沿った軍事境界線が設定されました。
戦争中、日本はアメリカ軍の補給基地として重要な役割を果たすとともに、特需により戦後の不況から脱することができました。
昭和28年西日本水害 – 北九州を中心に犠牲者1013人(1953年) 1953年(昭和28年)6月25日から6月29日にかけて、活発な梅雨前線の影響で九州北部を中心に集中豪雨が発生しました。
記録的な豪雨により、九州北部を流れる河川がほぼすべて氾濫するなど、死者・行方不明者1013人、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という大災害となりました。
この水害により、九州北部の河川における治水対策が根本から改められることになり、現在においても基本高水流量の基準となっています。

6月26日の出来事

6月26日の出来事
ハーメルンの笛吹き男 – 130人の子どもが集団失踪(1284年) 1284年、ドイツの街ハーメルンにネズミが大繁殖し、人々を悩ませていました。
ある日、色とりどりの衣装を着た男が現れ、笛を吹いてネズミを集めて退治しました。しかし、住民が約束の報酬を支払わないことに怒り、男は6月26日に笛を鳴らしながら町中の子ども130人を集めて連れ去り、二度と戻ってきませんでした。
この物語は人々によって語り継がれてきました。しかし、何世紀にもわたる調査にもかかわらず、笛吹き男の物語に隠された歴史的な出来事についての明確な記録は見つかりませんでした。
これまで多くの説が唱えられましたが、最も広く支持されている説は「子どもたちは東ヨーロッパのドイツ人植民地に彼らの村をつくるために、自らの意思で両親とともにハーメルンを去った。笛吹き男は運動のリーダーであった」というものです。
ハーメルンの笛吹き男(Wikipedia)
アメリカ統治下にあった小笠原諸島が日本に返還される(1968年) 1968年(昭和43年)6月26日、小笠原諸島がアメリカから日本に返還されました。
第二次世界大戦に敗戦した日本は1945年9月2日に降伏文書に調印し、連合国軍に占領されました。
しかし、沖縄県、奄美群島(鹿児島県)、小笠原諸島(東京都)は日本政府から行政上分離され、アメリカに占領されました。
1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立(主権)を回復しました。
しかし、奄美群島(1953年12月に復帰)、小笠原諸島(1968年6月に復帰)、沖縄県(1972年5月に復帰)は、引き続きアメリカに統治されました。
アメリカ施政権下の小笠原諸島(Wikipedia)

6月27日の出来事

6月27日の出来事
箱館戦争が終結し、新政府が戊辰戦争に勝利(1869年) 1869年(明治2年)6月27日、新政府軍と旧幕府軍の最後の戦闘となった箱館戦争(五稜郭の戦い)で旧幕府軍が降伏し、7か月におよんだ戦争が終結しました。
これにより約1年半続いた戊辰戦争も終結し、新政府が勝利しました。
箱館戦争(Wikipedia)
住宅街で化学兵器、松本サリン事件が発生(1994年) 1994年(平成6年)6月27日22時40分頃、長野県松本市の住宅街で、オウム真理教の幹部らが化学兵器として使用される神経ガスのサリンをまき、8人が死亡、約600人が負傷しました。
犯行の動機は、教団関係の訴訟を担当していた裁判官官舎を狙ったものとされています。
また、この事件では杜撰な捜査により第一通報者を犯人扱いした警察とマスコミが批判を受けました。
松本サリン事件(Wikipedia)

6月28日の出来事

6月28日の出来事
曾我兄弟の仇討ち(1193年) 1193年6月28日、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝が富士野で巻狩りを行った際に、曾我兄弟が父の仇である御家人・工藤祐経を討ち取りました。
事件の発端は、工藤祐経と曾我兄弟の祖父・伊東祐親の所領争いに始まり、この争いの中で曾我兄弟の父・伊東祐泰が工藤祐経によって殺されました。
曾我兄弟は静かに闘志を燃やしながら成長し、兄の曾我祐成(十郎)が21歳、弟の曾我時致(五郎)が19歳の時、仇討ちを遂げました。
工藤祐経を討ち取った後、十郎はその場で討ち取られ、五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、首を刎ねられました。
曾我兄弟の仇討ち(Wikipedia)
サラエボ事件が発生 – 第一次世界大戦へ(1914年) 1914年(大正3年)6月28日、オーストリア皇太子夫妻が当時オーストリアに併合されていたボスニアの都市サラエボを訪問中に、セルビアの青年に暗殺されました。
これによりオーストリアとセルビアの関係が悪化し、1か月後の7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告。これをきっかけとして第一次世界大戦(1914~1918)が始まりました。
サラエボ事件(Wikipedia)
福井地震が発生し、死者3769人(1948年) 1948年(昭和23年)6月28日16時13分頃、福井県北部を震源とするマグニチュード7.1の福井地震が発生しました。
福井市では当時の震度階級としては最大の震度6を記録。福井平野のほぼ全域に甚大な被害をもたらし、死者3769人、負傷者2万2000人以上、被災家屋は5万棟以上に達する大災害となりました。
死者数としては2011年の東日本大震災、1995年の阪神・淡路大震災に次ぐ戦後3番目の多さとなっています。
この地震を契機として震度階級が見直され、1949年に震度7(激震)が新設されました。
福井地震(Wikipedia)
神戸連続児童殺傷事件 – 14歳の少年を逮捕(1997年) 1997年(平成9年)6月28日、同年2~5月にかけて兵庫県神戸市で発生した連続殺傷事件で、当時14歳だった中学3年の男子生徒が犯行を自供し、逮捕されました。
この少年は児童5人を襲い、うち2人を殺害。酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)を名乗る犯行声明文を報道機関に送りつけました。犯行の動機は、快楽殺人とされています。
神戸連続児童殺傷事件(Wikipedia)

6月29日の出来事

6月29日の出来事
長篠の戦い – 日本戦術史上の画期的な戦い(1575年) 1575年6月29日、三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と、武田勝頼の軍勢が戦い、織田・徳川連合軍が勝利しました。
連合軍は馬防柵をつくり、3000挺の鉄砲隊を用いて、武田氏の伝統ある騎馬隊に壊滅的な打撃を与えました。
この一戦は、新兵器である鉄砲を活用した日本戦術史上の画期的な戦いであり、その後の築城法や戦術に大きな変化をもたらしました。
この戦いの後、武田氏の勢力は衰え、名将・武田信玄の後を継いだ武田勝頼は1582年4月に自害。甲斐武田氏は滅亡しました。
長篠の戦い(Wikipedia)
6.29豪雨災害 – 広島県で土石流災害が多発(1999年) 1999年(平成11年)6月23日から7月3日にかけて梅雨前線の活動が活発となり、西日本から北日本にかけて、断続的に大雨となりました。
特に6月29日に激しい雨が降り、住宅地の近くなどで土石流災害が多発した広島県を中心に死者39人にのぼる大きな災害となりました。
福岡県では、豪雨によってJR博多駅周辺の地下街に濁流が流れ込み1人が犠牲になりました。
6.29豪雨災害(Wikipedia)

6月30日の出来事

6月30日の出来事
隕石によるツングースカ大爆発 – 威力は広島型原爆の185倍(1908年) 1908年(明治41年)6月30日、ロシアのシベリア中央を流れるポドカメンナヤ・ツングースカ川上流の上空5~10キロメートルで隕石による巨大な爆発が発生しました。
直径50~60メートルの隕石が大気中で爆発して強烈な空振が発生。爆心地から半径約30~50キロメートルにわたって森林が炎上し、東京都とほぼ同じ面積にある樹木がなぎ倒されました。爆発の威力は広島型原爆の185倍ともいわれます。
爆発は居住地から離れたタイガの奥地で発生したため、人的被害は公的には確認されていません。
ツングースカ大爆発(Wikipedia)
宮森小学校米軍機墜落事故 – 沖縄で児童ら18人が犠牲に(1595年) 1959年(昭和34年)6月39日午前10時40分頃、アメリカ統治下の沖縄・石川市(現在のうるま市)で米軍機の墜落事故が発生しました。
石川市上空を飛行中だった米軍機は突然火を噴いて操縦不能となり、住宅地に墜落。衝撃によって跳ね上がった機体は宮森小学校に突っ込み、コンクリート校舎に激突。機体から漏れ出した燃料に火がつき、教室などを焼きました。
この事故より18人が死亡(児童11人と付近住民ら6人、後遺症による関連死1人)、210人が重軽傷を負う大惨事となりました。
米軍機のパイロットは空中で脱出して無事。米軍は原因について当初「故障による不可抗力」としていましたが、整備上の人為ミスが複合的に重なっていたことが判明しました。
宮森小学校米軍機墜落事故(Wikipedia)
村山内閣が発足 – 46年ぶりの社会党首相が誕生(1994年) 1994年(平成6年)6月30日、自民党・社会党・新党さきがけの連立による村山富市内閣が発足し、46年ぶりの社会党首相が誕生しました。
村山内閣は1995年(平成7年)8月まで政権を担当し、この間に阪神淡路大震災(1995年1月17日)対策や地下鉄サリン事件(1995年3月20日)などに取り組みました。
自社さ連立政権(Wikipedia)

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